ジャンル:アクションRPG
発売年:2017年
開発:株式会社スクウェア・エニックス
攻略中:Opening
哲学的考察:人類を代表する2B
著者:レトロゲーム部《Les Copains D'abord》部長Gangjahgang





本記事はレトロゲーム部《Les Copains D'abord》
部長Gangjahgangが記した、哲学的考察のレポートを引用します。

『ニーアオートマタ』の中心的キャラクターで、
ゲームの大半をプレイヤーの操作に置くのが2Bだ。
2Bは、人類を地球から追い出した地球外生命体が送り込んだ
ロボットと戦争をするために、人類によって作られたアンドロイドだ。
脚本を読むと、2Bが戦う戦場から
遠く離れた人類は姿を消していることがわかる。
では、どうすれば2Bは
もはや存在しない人類を代表することができるのか?

逆さまの肖像としての純粋さ
2Bは当初、ネガティブな感情を持たないキャラクターとして描かれている。
実際、彼女はアンドロイドであるため、
2Bに感情的な反応があるのかどうか疑うことさえ可能だ。
しかし、アンドロイドの頬を涙が伝うシーンがいくつもあることから、
2Bは生まれつき感情を持たない人物というよりは、
むしろ感情を浄化しようとする人物であることがわかる。
2Bに代表されるエクスパレ―ションは、
完成されたカタルシスの理想的な結果と言える。

カタルシスとは、観客の激情がパフォーマンスによって導かれる
プロセスにつけられる名称である。
このプロセスは、主にアリストテレスの『詩学』に出てくるものを
もとに概念化されてきた。
一般的な考え方は次のように要約される。

生理学的プロセスに似たプロセスのおかげで、
感情の表象は観客のために、自分自身の反転を生み出すことができる。
この理論の主旨は、
上演と観客の感情の同質性という考えを打ち破ることにある。
アリストテレスは、たとえば恐怖の表象を用い、
それが観客の憐憫の情に転化する。
作品で表現される感情は、
観察者の単純な模倣の中にその連続性を見出すものではない。
この浄化メカニズムを繊細に表現したのが、
小説『ドリアン・グレイの絵』である。
オスカー・ワイルドの小説では、主人公が犯した情熱と罪が、
彼自身の肖像画の特徴に刻み込まれている。
このようにして、現実の恥辱が表象に変換され、
逆に彼の肖像画の観客であるドリアン・グレイは、
その恥辱から浄化されるのである。
この例は、カタルシスのプロセスを示すだけでなく、
すべての否定的な情熱の浄化という理想的な結末を与えている。
ドリアン・グレイのように、2Bはこの理想の化身のように見える。

しかし、それは何を表しているのだろうか?
1つの答えは明白に思える。
終わりのない戦争でロボットと戦うアンドロイドとしての2Bは、
それを設計した人類を象徴している。
しかし、2Bの機能はまさに肖像画のそれとは正反対である。
つまり、2Bの行動は激情によって引き起こされるものではない。
では、なぜ彼女は行動するのか?

行動する翻案
ギリシャ演劇から始まったカタルシスについての考察は、
2Bに具現化されているように見えるが、同じ演劇からの比較へと私たちを導く。
アンチゴーヌのキャラクターは、
2Bのキャラクターを理解するための豊かな比較対象である。
ソフォクレスの悲劇に登場するアンチゴーヌは、
テーベの新しい王クレオンの娘である。
クレオンは、テーベの前王オイディプスが追放され、
2人の息子が権力をめぐって争った末に権力の座についた。
市民の平和を保証するため、クレオンは息子の一人を英雄として葬り、
もう一人の死体を腐らせることを独断で選択する。
クレオンの王室の意向に反して、アンティゴネは兄を葬ろうとする。
この不服従により、彼女は死刑を宣告される。
一見したところ、2Bは反抗的なアンティゴネーとはかけ離れている。
ゲーム中、2Bは彼女を戦場に送り込んだ男たちの
命令と法律に最新の注意を払って従う。
アンチゴーヌが人間の法に反抗するとすれば、
それはより高次の法、神の法の名においてである。
反抗という行為を通して、アンチゴーヌは正義という高次の法に従おうとする。
2Bが命令に従う勤勉さは、
アンチゴーヌの決意とはまったく異なるようだ。
2Bに与えられた命令は命令系統から発せられる。
対照的に、神の法に従うためには、
アンティゴネは人間のヒエラルキーに真っ向から挑まなければならない。
2Bにとって、法の追及はまず、
自分の命令や世界の秩序を邪魔する情念から距離を置くという形をとる。
この点で、彼女の道徳は
「世界の秩序を変えるのではなく、自分の道徳を変える」
(デカルト『方法論』)べきだと説くストア派の道徳に似ている。
しかし、2Bの世界秩序は、
人類と地球外生命体との絶え間ない戦争が、
アンドロイドやロボットという奴隷化された存在を通じて
代理的に行われることで成り立っている。
命令に従うことは2Bの義務であることは確かだが、
暴力的な世界に適応するための手段でもある。
だから、ストイックな道徳観が生まれても驚くには当たらない。
ヘーゲルが『精神現象学』書いているように、
「ストイシズムとは、常にそこから即座に戻ってくる自由であり、
思考の純粋な普遍性の中に戻ってくるものである。」

行動の原動力としての法律
2Bの物語は、形成的実践における思考へのこの上昇を物語っている。
2Bがそうであったように、戦争と隷属に悩まされる世界において、
思考は奴隷でありストア派の哲学者であるエピクテトスにとっての
自由の条件であり表現である。
しかし、この奴隷としての自由は、
世界の情熱的な要求から身を守ることを必要とする。
そのためには、
物事の仕組みの中で自分の居場所を見つけるという幸福の邪魔を、
もはや情熱を失うその時まで、自分の表現に取り組まなければならない。
この自己形成の作業は、
エピクトテトスのマニュアルの次の一節に完璧に示されている。
「あなたの子供は死んだのか?返したのだ。」
ストイックな人間が誇れる唯一の真の善は、
自分を取り巻く世界と折り合いをつけることを可能にする表現の使用である。
同じように、2Bは自分が適応できるようにするために、
繊細で情熱的な世界の表象から自分を引き離す。
これは、彼女の目を覆っている黒い目隠しによって示されている。
彼女が動くことを可能にする表象は、
最初は思考の作業によって合理化される。
しかし、2Bの主観的形成が思考のレベルまで高まるにつれて、
それは単純で、素朴なまでにストイックに
ありのままの世界を受け入れるという域を超えていく。
それが明らかになるのは、
コンピューターウイルスに感染した2Bが、
A2に自分を犠牲にするよう頼むときである。
この犠牲は、彼女のヒエラルキーからの命令に従った結果ではなく、
それどころか、2Bに与えられた最後の命令に対する不服従なのだ。

権威に背くこの犠牲は、2Bを残酷なまでにアンチゴーヌに近づける。
アンチゴーヌと同様、2Bの犠牲を求める命令は、
与えられた世界とその人工的な階層を超越している。
アンチゴーヌは神々の掟に従おうとしたが、
2Bは結局、超越的ではあるが、いかなる神の業でもない命令に従うことになる。
この命令は実際、カントの道徳律の定言命法になぞらえることができる。
カントにとって、道徳的行為を特徴づける定言命法は、
行為そのものに関わるという点で、仮言命法とは異なる。
定言命法は、 行為を生じさせた原理のみに関わるのに対し、
仮言命法は、別の目的のために必要な行為として行為を命じる。
定言命法は、行為の結果についての考察から距離を置き、
行為の道徳的価値をその意図、その原理に焦点を当てる。
この観点からすると、道徳的行為は、
傾倒によって動機づけられることはありえない。
さらに、カントが『道徳形而上学の基礎』の中で指摘しているように、
「(...)完全に(傾向から)解放されることは、
すべての理性的存在の願いに違いない。」
つまり、2Bの犠牲によって明らかにされた人間性は、
感性の発見ではなく、人間性の理性的性格の 最も強い表現、
すなわち道徳律なのである。
2Bに課せられた人間法を超えた行動原理として発見されたのが
道徳法の「汝、戒め」であり、
逆説的ではあるが、
それが2Bの人間性を確認する適切な人間法なのである。
道徳律に従った行動が可能であるからこそ、
2Bは(人間的)なのである。
究極の反転ドリアン・グレイの肖像画が、
それを象徴する人物の情熱的な人生を吸収することによって
堕落していくのとは異なり、2Bは人間性の肖像画として登場する。
この消失は、すべての偽りの超越性を殺し、道徳律だけを残す。
『ドリアン・グレイの肖像』の最後で、
ドリアン・グレイは肖像画を刺して破壊する。
肖像画は純粋さを取り戻し、
ドリアン・グレイは年老いた醜い男に戻るのだ。

『ニーア オートマタ』のラストでは、
セーブデータを削除してゲームを破壊するようプレイヤーに求めることで、
同様の逆転が実現する。(上述の記事を参照)
プレイヤーのゲーム内アバターを決定的に破壊するこの行為は、
道徳的行為に違いない。
あらゆる種類の道徳的行為の存在について
カントが疑念を抱いているにもかかわらず、
このゲームは、貴重なセーブデータを削除するという決定が
道徳法則の命令によってのみなされることを確実にするために、
プレイヤーに投げかけられる質問を用いている。
(セーブデータを削除して)
「あなたが救う人はランダムに選ばれます。」
つまり、この人物は...すでに助けを求めている...
あなたが忌み嫌う人物かもしれない。
それでも助けたいですか?
(プレイヤーが「はい」を選択した場合):
あなたはデバッグモードやチャプター選択を解除するために頑張ってきました。
今はもうアクセスできない。まだ...手伝いますか?
(プレイヤーが「はい」を選択した場合):
人によっては、あなたが注目を集めるためにやっているだけだと言うでしょう。
それでも手伝いたいですか?
(プレイヤーが「はい」を選択した場合):
これが本当に、本当に、あなたの最後の言葉ですか?

『ニーア オートマタ』は、2Bという人間性の表象を破壊することで、
道徳的な行動において明らかになるのはプレイヤーの人間性である、
というクレイジーな賭けに出る。
肖像画を破壊することで、それまで表象に支えられていた
ドリアン・グレイの悪癖が明らかになるのと同じように、
『ニーアオートマタ』である人間性の表象の支えを破壊することで、
道徳律の定言命法の表象にアクセスすることを通して、
プレ イヤー自身の人間性が明らかになるはずなのだ。
「実際、ある法則が、それ自体として、また即座に、
意志の決定原理(これは、しかし、すべての道徳の本質的な特徴である)
となりうるかを知ることは、人間の理性にとって解決不可能な問題であり、
自由意志がいかにして可能であるかを知ることからなる問題と同一である。」
イマヌエル・カント『実践理性批判』

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